母親との会話も拒否して自室にこもる孝夫(20才、来所時年齢)
孝夫の母親が来所したのは、今から三年前の秋だった。母親はつぎのように孝夫の様子を話してくれた。「自分の部屋に引きこもって出てこうへんのですわ。食事も私が二階まで運びますねん。今年の春頃までは、私にだけは話してたんですけど、それもいつのまにかなくなりました」。こんな状態であっという間に一年がすぎた。
大学一年生だった孝夫が、二年生に、年があけたら三年生になる。母親はとりあえず近くの内科医に相談したが「本人を連れてきて下さい。でないと治療は進められません」と、言われた。そこで大学のカウンセリング・センターに連絡をとり、母親だけでも通いながらアドバイスを受けてきた。時には父親もいっしょに足を運んで。親としてはできる限りの努力してきたのだが、孝夫の状態はよくなるどころか少しづつ悪くなっているという。母親の料理した食事を最近では食べようとせず、自分でラーメンなどにお湯を注いですます日も増えてきた。「それじゃ家族のあいだに孝夫さんとの会話はまったくないんですね。う-ん、お母さんとのあいだにも、ですか。これは一番しんどいポイントですね」と、カウンセラーは話した。
家族療法の視点で、どこまでこの状態を改善できるか。まずはそれを一番に考えなくてはならないだろう。
ひきこもりの第5段階目にあたる孝夫の様子
同じホームページに書いた「ひきこもりにみられる『5段階』の症状」(淀屋橋心理療法センター作成)を、今一度ここで紹介しよう。孝夫の様子にあてはまるのは、一番重いとみられる5段階目だ。
第5段階(こもりっぱなしで、家族への不信感もあらわ)
自室に閉じこもって出てこない。食事も母親が差し入れるか、ドアの外に置いておく。一日一食が多い。
会話はメモに書いてドアのすき間から入れたりだしたり。
むりに話しかけたり部屋から出そうとすると、親にでも暴力をふるうことがある。
部屋のカーテンもしめきったまま。
部屋の掃除はまったくせず、床は足の踏み場もないくらいいろんな物が散乱している。しかし母親をはじめ誰の入室もゆるさない。
散髪なども拒否するため、髪の毛はのびでいる。
孝夫は家族との会話はまったくといっていいほどなかった。必要なことがあれば紙に書いて食卓の上においてある。「パンツとシャツ、2枚づつこうといて」「きのうの新聞、ぼくの部屋の前においといて」のように、用件のみを伝えてくる。外出もほとんどせず、夜になって気がむいたときにコンビニに出かけるくらい。「もうこんな生活になって二年目。せっかく入った大学は、いったいどないするつもりやねん」と、思うたびに両親は心が重い。
家族療法による<ひきこもりの専門家>の話はつづく
担当カウンセラーは、治療の方針について次のように説明した。「ひきこもりとしては難しい部類に入るかもしれません。お母さんとの会話もないというのが、一番のネックです。しかし成功するか否かのポイントは、ご両親が協力して、息子さんのふだんの様子を克明に毎日少しづつ、たわいもないことでも記録していけるかどうかによります。悩みのことでも生き方のことでもないんです。毎日のさりげない、細かいことをこつこつ書けるかどうか。積み上げていけるかどうかです。
最初は一週間に一回。3ヶ月がワン・クルー。それで治るというわけではないですが、手応えがわかります。変化がきそうやなとか。はやければ半年、ふつうで一年くらい。こういう子は行き詰まるときは行き詰まるんですが、うまくいきだすと力強く立ち上がるゆうことはよくあります。なにか成長しきらない、本来でてくるはずの力が伸びきってない。それをじょうずにのばしてやる。多くは本人のなかにある本来そなわっている芽を伸ばすんですけど。でも待っていてもなかなか伸びません。いろんな工夫をしてその芽が育つようにもっていくと、対人関係もおくさないようになったりとか、自分のやりたい道をみつけて努力するようになったりとか。息子さんのケースは、基本的には解決する問題です。こつこつ積み上げていくことが、勝負の分かれ目ですね」。
治す道筋を二人で協力して歩もうと、両親は心を決めて
両親は食い入るようにカウンセラーの話しを聞いていた。今手を打てば、なんとかなるようだ。しかしほっておいても、子どもが自分の力で立ち直ることは難しいという。いやなんとかしてやりたいと思っても、親も無力だということがわかってきた。やはりここは家族療法の専門家の治療をお願いしよう。「先生、よくわかりました。ぜひカウンセリングをお願いします。生活の記録をとることやったら、頑張ってなんとかやってきます。今の状態から息子が抜け出られるのなら、私らでできることなら、どんな努力でもします」と、母親の決意が伝えられた。
ここでこのケースの前編は終わる。次は孝夫の様子に変化がでてくる中編のプロセスを描きたい。