「うつ」になやむ牧田氏と妻の会話を、カウンセラーはしばらくメモを取りながら聞いていた。要点を書きとめた用紙に目をとおしながら、どう説明しようか考えた。職場での人間関係や仕事への取り組みという視点からのアドバイスもある。しかし今から家に帰って二人は、「さて、何をすればいいだろうか」というテーマにぶつかるであろう。すぐに実行できる具体的なアドバイスがなによりだいじである。妻は「私ができることを教えていただきたい」と、はじめに話していた。いくつかのアドバイスのなかから、やはり家族にむけたアドバイスがなにより優先すると判断した。
アドバイス1:励ましや期待は、本人には重荷です
牧田氏は営業課でも第一課というエリートコースの課長に抜てきされた。「わーすごい、がんばってね」という妻のほめ言葉や激励が、ややもすると牧田氏には重荷に感じられていた。また上司の坂田部長は、なにかと陰になり日向になり牧田氏をかばってくれる。これがうれしい反面、「早く期待に応えなくては」というあせりにつながっている。ちょっとしたミスが「なんで僕はこんなどじばかりくり返しているんだ。申し訳ない」という気持ちが強くなり、いっそうつらさと苦しさが増していた。
アドバイス2:「ダメ父親だ、子どもにキャッチボールもしてやれない」という発言を、そのまま受けとめて
牧田氏は、体のだるさや微熱がなかなかとれなかった。全身の倦怠感などもあり日曜日でもほとんど布団から出られなかった。「お父さん、野球いっしょにしてね。日曜日は試合、みにきてね」と言った息子の言葉が、ぐるぐると頭の中をまわっていた。「息子との約束が果たせない。キャッチボールの相手もしてやりたいが、しんどくてできない。すまない、こんなダメ親父で」という気持ちでいっぱいだった。
夫のつらい気持ちを聞いた妻は「そんなことないわよ。啓一はわかってるから。もうあなたのこと忘れて、友達と遊んでるから心配しないで」と、言っていた。しかし励ましと思える言葉よりは、「そうよね、つらいよね。わかるわ」と、夫の気持ちをそのまま受けとめてあげよう。
その他のいくつかのアドバイスも聞いたあと、妻はこう言った。「わかりました。私、この人によかれと思ってずいぶん反対のことをしていたんですね。気をつけて実行してみます。今日からでもやれるように思えます。ありがとうございました」と。
三ヶ月後、元気がでてきた牧田氏
牧田氏は来所のたびに元気をとりもどしてくるように思えた。職場での状況はそれほど変わらないのだが、「あせらず自分のできることを一つづつやっていこう。まったくちがう性質の課にきたのだから、わからなくてもむりはない」と、受けとめられるようになってきた。
カウンセラーのアドバイスを受けてから、夫婦の会話はどう変わったであろうか。初診がスタートして三ヶ月ごろの会話に目をとおしてみよう。
1.仕事から帰って夫の口からぐちがでてきた
夫:きょう会社にがんばって行ったけど、しんどかった。めちゃ疲れた。明日はダメかもしれない。
妻:おつかれさまでした。しんどかったのね。
夫:会議なんか、長すぎるよ。なにをあんなに話しあわなきゃならないんだ。
妻:そう、そんなに長いの。
夫:うん、そうなんだ。長けりゃいいってもんじゃないのに。部長が会議ずきなんだよな、まったく。
妻:ほんと、会議ずきっていやよね。
夫:ま、しょうがないか。こんな調子でゆっくりあせらずやるしかないな。
2.「野球の試合を見に行ってやれなかった。だめな親父だ」
夫:なあ、ぼくってダメ親父だよな。
妻:え、どうしたの、突然に!?
夫:こないだの日曜日、啓一の野球の試合だったんだよね。「きっと見に行くから、がんばれよ!」って約束したのに。とうとう行ってやれなかった。
妻:そうね、残念だったわね。
夫:啓一、なんか言ってなかったか?もうお父さんなんかきらいだとかなんとか。
妻:「さびしかった」って言ってた。残念そうだったわ。
夫:そうか、かわいそうなことしたな。啓一のためにも早く元気にならなくてはな。
妻:無理しないでね。
夫:うん、わかってる。マイペース、マイペース。
「どうですか。奥さんの対応がだいぶかわってきたように感じますが」と、カウンセラーは二人の会話についてこんな質問をしてみた。「はい、なんか肩の力がぬける気がします。最近は、ああそうだ、そんなにがんばらなくてもいいんだって気持ちになれて」と、夫は答えた。妻のほうも「おかげさまで、どう受け答えすればいいかがわかってきました。もう一度、主人がうつになってもだいじょうぶって気がします」と、笑いながらこう話した。
牧田氏はさらに二ヶ月たってケース終了を迎えた。営業のこつをつかめたころから、見違えるようにテキパキと指導力が発揮できるようになってきたという。「パパがんばるぞー。仕事も家庭も野球も。心配するなよ」と言ったことばは、そのまま実行されている。啓一君も大喜びなのは言うまでもない。