「親は何を言ってもわかってくれない。だからもう何も言わない」
家族との会話がなかった
親とのコミュニケーションがとれなくて、ずーと引きこもりの状態が続いていて。本を読んだり、自分なりに考えたことなんかをパソコンに文章化したりして、数年がたつという「引きこもり過食」の美佳さん。本当に会話がなかったんです。部屋からでてくるのも夕飯のときだけ。それも大急ぎで食べて、過食をしに自室へ戻る。テレビがついているから、みんなの顔はテレビに釘付け。一日一回だけ顔をあわせる美佳さんのほうを、誰も向かないまま。そして3年が過ぎた。
相談を受けたセラピストは「これではいけない。せめてテレビを消して会話のチャンスを」と、アドバイスをだした。「やだー、僕みたい番組があるのに!」と叫ぶ弟も説得して、なんとかテレビのスイッチだけは入れずに夕食を囲むという約束ができあがった。
ポツリ、ポツリと会話が交わされて
三ヶ月ほどたつと、夕食の模様がかわってきた。弟は学校であったことを話し出した。部活のサッカークラブのことも聞いてほしいようだ。いつのまにか弟が緩衝剤となって、美佳と両親の間にも会話が行き交うようになってきた。「美佳ちゃん、もうちょっとゆっくり食べたら」「えー、ゆっくり食べてるやん」といったさりげない会話だ。「いいですよ。さりげない雑談こそがコミュニケーションの基盤になりますから。大いに裾野を広げてください」と、面接でセラピストも舵取りをする。
美佳は食後すぐに自室に引っ込んでいたが、少しづつ夕食がすんでも居間で時間を過ごすようになってきた。時には「あのね、お母さん」と、自分から話しかけたりもする。「明日ね、図書館に行ってみようと思うんだけど」「え、図書館へ」と、母親はびっくり。ここ数年外に自分から出かけるということがなかったのだ。「それはいいね。なにか本をさがすの」「うん、なんか読んでみようかなって思って。見つかるかな」「どんな本、読みたいん」「ようわからんけど」。
母親はうれしかった。美佳が変わってきたからだ。やっぱり食事どきの家族の会話を優先させてよかった。唯一のチャンスだから。もちろん過食がなくなったという結果はでていないが、過食の食べ物もだんだん自分で買いにでるようになった。「お母さん、過食のお金、たくさんつかってごめんな」「いいよ。気にせんで」。いままで過食に関して、決して自分から話題にすることがなかったのに。この動きは治療的にみても、親にたいして信頼感を芽ばえさせていることは明らかだ。母親は「このまま順調にすすんでくれるかな」と思ったが、やがて次の山にぶちあたることになる。
親への批判や文句の声がぞくぞくと
図書館へ通ったり、マーケットに買い物にでかけたり。文房具なんかも自分で買えるようになって。「お母さんあのね」が増えてきた。読んだ本の話しもするようになった。ところが積極的な言動が増えてくると、決していいことばかりは続かない。必ずと言っていいほど、親批判や、社会批判といった言葉も発せられるのが常である。美佳も話す内容がしだいに変わってきた。
「どうして私、こんな人ぎらいになったん?」「私って、なんでみんなから浮いてしもたんやろ」「常識ってなに。なんで私にはそれが身についてへんの?」「お母さんら、どんな育てかたしたん?」「ほんまに私のことわかってくれてるの」「なんか弟ばっかりかわいがってたな。私のことほったらかしやったやんか」。親にとっては耳の痛い話しである。しかも一つ一つに答えを要求してくる。いっとき良くなってきたと安堵の胸をなでおろしていたのに。親にしてみればなんでいまさらこんなに攻められないといけないのか。また悪くなってしまったのではないだろうか。不安や怒りが先だって、またまたしんどさがどっと押し寄せてくる。
立ち直りかけたけれど、やっぱりダメ
過食症のケースにはよくあるパターンである。親子の会話がまったくない家族に少しづつ会話ができ、コミュニケーションがとれだしてくる。過食のスタイルにも自立の良い変化が見えだす。ところが次は針千本のような山がやってくる。せっかくうまくいきかけている流れがこここで再び暗礁にのりあげる。
「人間関係をうまくやっていく知恵みたいなもんを教えて欲しいのに、親はまったくなんにもわかってない」と、かなり要求水準が高い美佳の発言である。「親とは小さい頃からちゃんと向き合って話しをした記憶がない。これって致命傷じゃないですか」と、きびしい表情で問いかけてくる。心の底にたまっていたマグマが噴火しはじめたのだ。この傾向は治療的には前進だが、そうとらえるには家族にはしんどすぎる。
有効な手だてを急がないと、再び美佳は自分の殻にこもってしまうだろう。じっさい送られてきた美佳の日記には、親批判を通り越してふたたび無力感を表す言葉が出始めている。「親の意識と私のそれとはずいぶん違う。こっちが一方的に説明しなくてはならないなんて、しんどすぎます。親がこれ以上私の言葉を理解しないのなら、もういい、ほっといて、やっぱりダメという気持ちになります」。よい変化のあとにくる試練の時がやってきた。